本の紹介 51
かねこカウンセリングオフィスの金子です。
あっという間に1月が終わり、2月に入りましたね。今回はお正月に読んだ本の紹介です。
「傷を愛せるか」増補新版、宮地尚子、ちくま文庫、2022.

トラウマ研究の第一人者によるエッセイです。
本屋さんで偶然、出会った本で面白かったです!!
いつもように幾つか気になった点を引用してご紹介しますね。
P78
わたしは人口密度の高いところが苦手で、人が群がっているだけで息苦しくなり、逃げ出したくなる。みんながもっているものより、自分だけのお気に入りを見つけるほうがうれしい。学術や研究の領域においても同じだ。ほかの人のしていることはしたくないと思う。ほかの人が同じことをしようとしているなら自分がしなくてもいいや、その人が代わりにやってくれるんだから、そのぶん自分はほかのことに力を注げるぞ、とも思う。
けれどもどこかでわかってもいるのだ。いったん競争の場に置かれると、負けたくないと思って自分がしゃかりきになってしまうことが。ときにはずるをしてでも勝とうとするかもしれないことが。そんなふうに自分のいやな部分、自分の見たくない部分を引き出されてしまうのが怖いのだ。外的な要素によって自分が駆り立てられ、操作され、したくないことまでしてしまうはめになることを避けたいのだ。
それに競争に負けると傷つく。でも勝った場合も、その喜びは刹那的で長くつづかない。となると喜びを感じるには勝ちつづけなければならない。それは不可能である。だから競争せずに済むように、他の人がしないこと、関心をもたない領域に私は目を向いてきたのだと思う。
私も人込みは嫌いで(そもそも好きな人はいないか・・・(-.-))、電車には極力乗りたくないです。仕事だから我慢して乗るけど・・・
休日のショッピングモールや遊園地は本当に行きたくないです笑
また、並ぶことも大嫌いです。
並ぶという行為は私の中で「自分の時間を盗られている」感じがしてストレスです。
(とはいってもお店のレジやATMなどはちゃんと並びますよ。社会ルールは守ります!)
畑にいる時間が一番、好きかもですね。
また、「みんながもっているものより、自分だけのお気に入りを見つけるほうがうれしい」とありましたが、ここも共感です。
自己開示になりますが、私は物持ちがすごくいいんです。
例えば中3からはいているジーンズや中2から使っているシャーペンがあります。どちらも本当に自分のお気に入りで特にシャーペンは無くしたり壊れたりしたら・・・と考えるだけで悲しくなります笑
なんだか著者と同じ気持ちであると思うことはちょっと嬉しいですよね。
P97
過去を受け入れ、同時に未来への希望を紡ぎつづけるには、おそらくほどほどの無力感=宿命論と、ほどほどの万能感=因果論を抱え込むことが必要なのだ。両方を共存させ、納得しやすいほう、生きていくのが楽になるほうを、そのときどきで都合よく使いわけることが重要なのだ。
人はだれでも、正しかったかどうかだけでなく、自分がそこにいる意味があったかどうか、自分がかかわることで何か違いがつくり出せたのかを確認したいと思う。けれども、それもまたはっきりとした答えはなく、自分なりに納得するしかないのだろう。
「なるほど~~」と思いました。
私は「こだわりのないことへのこだわり」という姿勢で生きていくようにしているのですが、「まぁいいや」(ここでいう「ほどほどの無力感でしょうか…)と「やれる!できる!はず・・・」(ここでいう「ほどほどの万能感」でしょうか…)と思うことでどうにか生きてきたように思いました。
最終的には著者も言っているように「自分なりの納得」ですよね、確かに。
P15
最近、親しい女友だちが、最愛のパートナーを病気で喪った。彼とも友人であり、治療方針のことで相談を受けたりもしていたので、その死はもちろんショックだった。生命力に満ち、長いあいだ病いと共生してきた人なので、訃報は信じがたかった。ただ、あまりに仲のいいカップルだったから、遺される彼女のことが最も心配になった。つきっきりの看病で、ようやく光が見えてきた矢先だった。彼がいなくなることなど、彼女にはこれっぽっちも考えられなかったはずだ。
仮通夜に駆けつけ、お葬式にも出席したが、彼女にどう接すればいいのか、わたしにはわからなかった。どんな慰めをいっても、手を握っても、ハグしても、なんの力にもなれないと思った。すべてが薄っぺらくて、自分が下手な芝居を演じているような気さえした。
そばにいても、彼の代わりにはだれもなれない。そのことは、痛すぎるほど明白で、動かしようのない、どうしようもない事実である。
お葬式の日は、蝉時雨の降り注ぐ、よく晴れた暑い日だった。喪主を務める彼女は、みんなの前で終始おだやかな表情をたたえていた。参列者へのあいさつも過不足のない美しいものだった。
式のあと、冷房の効いた斎場で火葬がおこなわれ、参列者が骨を拾う。骨壺に彼の骨が収められていくのを、彼女が見つめる。最後の一か月間、入院生活を余儀なくされていた彼の身体。そこに残された病院からの遺物が骨壺に混入しないよう、目を凝らす。その彼女の姿を、わたしは見つめる。 そのとき、なにかが腑に落ちた。見ているだけでいい。目撃者、もしくは立会人になるだけでいい、と。
「なにもできなくても、見ていなければいけない」という命題が、「なにもできなくても、見ているだけでいい。なにもできなくても、そこにいるだけでいい」というメッセージに、変わった。
引用が長くなりました。
最後の
「なにもできなくても、見ていなければいけない」という命題が、「なにもできなくても、見ているだけでいい。なにもできなくても、そこにいるだけでいい」
深い言葉だと思いました。
カウンセラーとして時に提案や助言をクライエントさんすることがあります。しかし、その提案や助言はクライエントさんにしか出来ない。私が代わりにやってあげることは出来ませんし、やってあげることは私の考えるカウンセリングとは異なります。
あくまでも、クライエントさんの力を信じて、あきらめず寄り添うこと。少しでも希望をもって話しを聴き続けること。
その姿勢の大切さを改めて考えました。
今回も素晴らしい本に出会えてよかったです。

