自分が「なに」を言ったかではなく、相手が「どう」受け止めたかが大事

かねこカウンセリングオフィスの金子です。

毎年、この時期は卒業式シーズンで別れと、新たな出会いの時期ですが、今年は新型コロナウイルスの影響で、例年にない卒業式が行われているようです。この時期になると、毎年私はこれから紹介する体験を思い出します。その体験というのは・・・

何年か前に、とある中学校で高校進学を決めた中3の女子生徒とお祝いの言葉を交わしつつ、ちょっとしたやりとりをしました。その中でふと、その生徒が「前に(金子より)こう言われたんですよ~」と笑顔で冗談交じりではあるも、その生徒にとってややネガティブな体験を吐露されました。私としては覚えていない(忘れている…)出来事だったので、<そんなこと言ったかなぁ~>とちょいと、とぼけて返し、その場は<高校でも頑張ってね!!>といった流れでやりとりを終えました。

しかし、その後、私は猛烈に反省しました…。自分としては何気なく放った言葉(なのでしょう…)が、相手にネガティブな思いをさせていたことが明らかになったこと…。カウンセラーとして本来あってはならない事であり、恥ずかしいことです。そんな体験をした矢先に、偶然にも読んでいた本で以下のような文章に遭遇しました(これも何かの縁かしら??)。少し長くなりますが引用しますね。

「教育の現場でなされる議論は(と一般化する事を控え、私がこれまで議論してきた議論は、といってもよい)、まず過半が、教師の側から見た「なに」に終始している。目標は何か、ねらいは何か、配慮点は何か、どんな教材を用意するか、どう働きかけるかなどなど、すべて教師の側から見た「なに」である。子どもにとって、その「なに」がどのような体験として受けとめられているか、といった議論がはたしてどれくらいかあっただろうか。

(中略)

子どもが「なに」をどう体験しているか、という内省を欠いたとき、教師は気づかないうちに“大きく”なる。教育的関与とは、あくまでも相互的なもののはずなのに、いつのまにか、一方的関与になってしまう。」

(飢餓陣営せれくしょん1「木村敏と中井久夫」 ~中井久夫の「言葉」~佐藤幹夫 より引用)

この主張は教師―生徒だけのでなく、大人―子ども、先輩―後輩、治療者―患者、つまり強者―弱者という関係性の時に陥りやすいといえるでしょう。佐藤はこう続けます。

「相手がどのような「なに」として受けとめているか、どんな体験となっているのか、

そのたえまない洞察が、同時に自己省察ともなっているのである。」

(前掲書 より引用)

この、とある生徒とのやり取りにおいて、私は「なに」をしたということすら、忘れていたのだからよけいにたちが悪い・・・そのことを棚に上げて言うのもどうかと思いますが、このエピソードにおける会話は、ささいなやり取りかも知れません。しかし、こうしたささいな会話の中に大きなヒントや気づきが大いに潜んでいる場合があると思います。

この体験は毎年、思い出しますし、むしろ思い出すようにしています。なぜなら、私にとって大きな気づきであり、身に染みる体験でした。そのような体験をさせてくれた、とある生徒に感謝と同時に申し訳ない思いを込めつつ、3月までの1年間を振り返り、4月からの新学期を新たな気持ちで迎えたいと思います。