本の紹介8

 かねこカウンセリングオフィスの金子です。

昨日はグンと気温が上がり、埼玉は最高温度30度とのことでした。新型コロナウイルス対策をきちんとしつつ、気候の変化にも気をつけたていきたいと思います。皆様もご自愛ください。

今回は久しぶりに本の紹介をさせて頂きます。先日、こちらのブログ(心にいつも天秤を・・・)でも少し紹介させて頂きましたが、岡野憲一朗先生の著作「心理療法/カウンセリング 30の心得」より、気になったものを引用します。

「心理療法/カウンセリング 30の心得」 岡野憲一朗著、みすず書房、2012.

P72

自分がこのままでいい、と思えない人は、いったい何が原因なのだろうか?この問いに明確な回答はないだろう。ただ私の臨床体験では、ある一群の人たちがそのような人生観を持つ傾向にあるようである。それは幼少期時に親から「お前はそのままでいいんだよ」というメッセージを受けることが出来なかった人たちである。親がそれを伝えられなかったのか、あるいは子どもの側がそれを受け取りそこ無かったかはわからない。ただ彼らが繰り返し語る思い出、たとえば親から何度も「お前なんて生まれてこなければよかった」と言われたという記憶などにはそれなりの信憑性がある。通常の親子関係では親の側から自然に伝わってくる「生きていていいんだ」という感覚は、それを幼少時に与えられなかった場合には、新たに獲得することは容易ではないらしい。それは常に他人から伝えられたり、自分自身に言い聞かせたりすることで、かろうじて維持されるようなものとなるのである。そして、ここに面接者が一役買わなくてはならない場合も少なくない。

あらためて強調する。来談者が「自分がこれでいいのだ」と思えることは、心理療法の最終目標の一つとなりうる。ただし「少なくとも支持的療法では」と人は付け加えたくなるかもしれない。精神分析療法ではもちろん「自分はこれでいい」と思えるだけでは足りないであろう。自分の無意識について知り、自分の中のさまざまな衝動を制御できるようになり、生産的な人生を送れるようになることを目指すはずだ。しかしそれも含めて「自分はこれでいいのだ」という感覚を持てることが目標といえるだろう。自分のさまざまな衝動や無意識的願望を受け入れ、そのような自分を肯定できることをこの目標は意味するからだ。

P153

面接者と来談者の関係は非常にドライなものになりかねない。特に決して安くない料金が絡む場合にはなおさらである。来談者側としては、自らのニーズが満たされなければ、一回一万円近い料金を支払うセッションを続ける意欲を早晩失ったとしても、それはもっともなことだ。

一セッションごとにニーズが満たされれば、治療は継続していくと考えていい。逆にそれが起きていない時、面接者は大海原で無風状態に遭遇した帆船のような気分になるのである。

来談者のニーズは実にさまざまである。とにかく一方的に気持ちを吐き出す機会を求める人。セッション中ずっと面接者に目を見て言葉の一つ一つにうなずいてほしい人。あるいは自分の持ち込む質問に的確に答えてほしい人。しかしその表面上のニーズとは別に、あるいはそれらの根底に、来談者の「理解してもらう」ことにニーズがあることを、面接者は心得るべきである。それはかなり直接的に面接における心地よさや満足感と結びついている。

P168

療法家とは、自分の怒りを解毒したり、別の場所で吐き出したりするだけの精神的、時間的な余裕をもった人にのみ、可能な仕事だと規定したい。親にも教師にもスポーツトレーナーにも、外傷の可能性をきめ細やかな配慮により排除し尽くすだけの余裕はおそらくない。しかし一日のうちの限られた時間を来談者のために費やす面接者は、みずからの怒りを十分に検討する余裕がなくてはならない。するとその怒りは解毒されて、面接者はたとえばそれを面接者に対して当惑や困惑の形で表現することになるかも知れない。こちらの方は怒りの正統な分解産物として表現されてしかるべきであろう。

しかしここで改めて強調しなくてはならないのは、怒りはシグナルとして、羅針盤としての意味を持つという事である。来談者に対して限界設定が必要な場合、それを教えてくれるシグナルは、面接者の側の「怒りの芽」である。面接者が治療構造を引き締めなくてはならない時、「怒りの芽」を感じとることで、治療構造の綻びを感知するというわけだ。そしてそれは面接者の危険な自己愛の存在を知らせるものでもある。

 

これまでにも何度か書きましたがが、心理療法/カウンセリングというものの、難しさ、奥深さ、そして、面白さ、等々は考えれば考える程、終わりがないものと思います。日々、自己研鑽を忘れずに、より上質な臨床が出来るよう、励んでいきたいと思います。

では。

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